松浦一族の始祖は、延久元年(1069)に肥前国宇野御厨検校ならびに検非違使に任命され、摂津国渡辺庄から下松浦今福に下向土着した源久とされます。江戸時代に平戸松浦氏によって編纂された『松浦家世伝』では以下の流れになっています。

 

 松浦党の先祖は嵯峨天皇の第一皇子であり、仁明天皇の皇弟でもある河原左大臣源融より出て、その嫡男右大臣源光が後に勅定に背いたため、延喜九年(909)摂津渡辺庄に流され、その子孫が代々この地に土着して、渡辺姓を称することになりました。

 この渡辺氏の子孫の中に、源頼光に従って羅城門で妖気を払ったと伝えられる渡辺綱がおり、その息子の授が肥前国奈古屋に下向しました。その息子の泰は北面の武士として後三条天皇に仕えましたが、その息子の久が渡辺庄から今福に下向土着しました。

 

 松浦氏の系図は各種ありますが、平安時代までの系図は共通しており、各地に割拠した松浦一族は、いずれも源久およびその嫡男の源直の子孫とされています。

 しかし、藤原実資『小右記』には、源久が延久元年(1069)に下向する前に、肥前国関係で以下の人物が見られます。

・肥前守源聞

・肥前守源定(長和五年(1016)):肥前守就任の御礼言上

・前肥前介源知(寛仁三年(1019)):刀伊の入寇時に松浦地方で活躍

このことから、嵯峨源氏の子孫は、源久以前から国司や在庁官人として肥前国に下向土着していたと考えられています。そうした嵯峨源氏の子孫たちが松浦党の核となり、中央で名が知られている渡辺綱の子孫である久に先祖が集約されていったのではないか、と考えられています。

 

参考文献

[1] 瀬野精一郎「松浦党研究とその軌跡」青史出版(2010)